市民・行政・協働

市民同士で議論することの必要性

冷静に、本質を見失わずに議論をすることが苦手とされる日本国民も、国のエネルギー政策・原発問題等様々な問題が噴出する中で、諸所で、人任せ・行政任せ・政治家任せにしていられない状況になりつつある。


身近な問題として、町田市の資源循環型施設の基本計画もそのひとつである。老朽化した焼却施設の建て直しをめぐり、町田市は、これから先数十年経ても持続可能な、多くの市民が受け入れられる様な、新たな資源化施設の基本計画を、市民と協働で検討している。

新たな挑戦には、異論はつきものである。異論なら議論の余地があるけれど、最初から反対、署名活動だと言われてしまうと、議論はなりたたない。何故メタン化施設なのか・どうして分散化なのかということを、一人ひとりが冷静に聞く耳を持たなければ、賛否の意思表示は出来ない筈である。


先だって、反対を唱えるグループの勉強会に行ってみた。講師の演題が「問題だらけのメタン化施設」だけあって、メタン化・資源循環型施設計画の全てを否定するものだった。最後の質疑の時、メタン化施設の危険性について講師に質問をしてみたところ、「危険性を回避する為の条件を、全てクリアすれば問題はない」という回答だった。その後、このグループのバイオガス化施設反対の署名用紙に添付されていた勉強会の要旨には、何故か、この質問に対する回答は記されていなかった。


新たな資源循環型施設を作る以上、危険性を回避する為の最大限の努力をするのは、当事者として当然のことだと思う。この努力を怠った状態で建設することを想定して、危険だ・反対だというのでは議論にならない。一部の講師・グループの考え方が本当に正しいのか・正しくないのか、いま市民同士の議論が求められている。その為には、自身で考え、判断できる情報を身につけなければ議論は出来ない。